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当然の帰結として

2008.02.02 | Posted at 02:43 | Category: こうふくのえとせとら

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大宇宙の意思というものを想像するとき、まず人というものが初めに想起されて環境が設定されたのであって、環境があってそこに人を配置したわけではないと分かる。なぐさめに宇宙や自然を創って、手持ち無沙汰に人間も創ってみたという、目的性のないことではない。人間という目的があって、すべてが計画されたのだ。すべて物事の順序というのはそうなっている。第一原因によって織りなされた最初のパターンは、その後も同じ順序を学ぶのだ。つまりすべては目的があってそこにある。計画があってそこにある。
ひとは環境に支配され、環境に含まれているかのようだが、じつは、環境を包含し、環境の主人であるのが人間なのだ。なぜなら、人間があって初めて、環境はその活動を開始するからである。
人間が存在することによって、環境も姿をあらわすのであって、環境は本来、人間が成長し、向上し、発展していくための材料であり道具であるのだ。人間の側に本来の主体性はある。

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