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性善説

2008.02.02 | Posted at 03:22 | Category: こうふくのえとせとら

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しかしまた、なぜ人間は善なるものを、真なるものを、美なるものを知っているのだろう。子供のころから教えられてきたから。本で読んだから。そのような人を歴史の中に見るから。
ただ私は思うのだ、良きものを良きものとして受け入れる素地が人間にはあると。アプリオリに、先天的に、善と悪とを、真と偽とを、美と醜とを、嗅ぎ分ける感覚を持っていると。
楽天的に過ぎるかも知れぬが、私はそれを信じたい。人間存在を根本のところで信じられなければ、真なる幸福もまたないであろうと思う。

なぜなら性悪説にたつなら人間は自分自身をも信ずることが出来ないはずだからである。
本来性悪なる生まれであるが社会的教育によって後天的に善なるものに目覚める。のであるとしても、自分の出自が悪であるとして、どうして人は自分を信じ人を信じ、世を信ずることが出来ようか。
本来の悪を克服して、いま正義の人として生きていたとしても、心の奥深くに罪の子としての烙印を受けて真に幸福になりえようか。真の幸福感が生まれるだろうか。
たとえこの世においていかなる悪を犯したにしろ、それを克服して正しい道に入った場合、それは本来の自分、本来の善なる自分に立ち戻ったのであると考えてこそ、真の幸福感があるのではないか。

本来ダイヤモンドであるものが、たまたま泥に被われていて、傷もついている。きれいな清水で洗って磨き上げたら輝きを取り戻した。そうした物語に私は真実を感ずる。

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