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格差是正について考える

2012.05.09 | Posted at 10:49 | Category: 政治・経済・社会

「結果によって生ずる格差を是正する」というのは「結果平等」の思想であって、その原因自体を格差是正することは不可能だからである。
つまり、機会の均等、機会の平等によって、スタートラインを同じくしながら、それぞれ、結果に差が出る。
その差が出る原因というのは、素質や、能力、努力、意思、行動力、身体能力、学力、家庭環境などだが、それらを是正するというのは不可能であり、それらを不平等という言葉で処理することも無理である。
その差、あるいは、その差によって生ずるものを、格差という概念に入れてはならないと思う。

何故なら、就職できないとか、失業したとか、非正規で働いている、とかは「格差」ではないからだ。
あたかも、これら就職できないとか、失業したとか、非正規で働いているとかを、社会的、国家的不備に「原因」があって、それによって生じた「格差」であると見せようとしている。
これらも、是正の問題ではなく、救済の問題である。

次に、高額所得者と低額所得者という問題がある。収入に差があるのは確かだが、これを格差と呼ぶのだろうか。

低額所得者と高額所得者との間に格差があるから、是正しなければならないと、本気で考えているとするなら、それはマルクス主義者としか思えない。
低額所得者が高額所得者のような生活が出来ないから、高額所得者に重度の累進課税をかけて、富の分配と称して、バラまきをする。
のが格差是正というものなら、それは社会主義政策であり、共産主義への道である。
格差の問題と言うより、イデオロギーの問題ではないだろうか。

大企業と中小企業の格差という図式も、これと同じである。
貧しいものが苦しいのは、金持ちがいい暮らしをしているからだ、というマルクス主義の亡霊が、格差是正という、意味不明の造語の中に見え隠れしている。

こうしたことを書いていくと、強者の論理だ、弱者切捨てだ、冷血だという批判も受けそうだが、強者は搾取者であり、弱者は正義である、という考えが、まだ根強くあるのだと思う。
無論、弱者を救済するということは、社会の責任であり、義務でもあるが、これを、格差是正などというのは、弱者であることの原因を、他人や、社会や、国家や、時代などの、本人以外のところに転嫁して、当然の権利のように考えている者の高言としか思えない。

格差を縮めるということに、人道主義や騎士道精神、博愛主義があることは、認めよう。弱者救済の思いがあることも、認めよう。

だが、金持ちが自分よりいい暮らしをしているから、なんとか同じ暮らしが出来るようになりたいと思って、努力し、工夫し、汗水たらして働くのなら分かるが、それを不平等と呼んで、金持ちや大企業から、たくさん税金を徴収して、制度的に平等にしろというのは、よく考えるなら実に身勝手な話だ。
平等と言う言葉は、耳に心地よい響きであるし、魅力的でもあるが、本質は嫉妬心である。

格差、格差と騒いでいる議員さんも、マスコミも、この平等にするというのと「格差是正」というのを、イコールで使っている。
それを、弱者救済という大義名目で押し通そうとしているが、「格差是正」と言う言葉に権威を持たせ、それが「正義」であるかのように思わせる、ミスリードの危険性がある。

「格差是正」論者の教義は、「平等思想」であり「結果の平等」である。

格差が無い社会などあり得ない。
こうしてみると、「格差是正」というのは、「社会主義政策」を推し進めろ、と言うことと変わらない。

格差は絶対に無くならないのに、格差があることを攻撃するのは、単なるプロパガンダである。

格差是正というお題目のもとに、怠け者が楽して、努力するものが報われないと言う、ものもらい集団の国家になることを憂えるばかりだ。

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